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2011年3月31日木曜日

てんかん(その後)

救急車の同乗し、病院へ直行するかと思えば病院へ確認を取ってから移動しますとの事でした。焦っていただけに若干拍子抜けしましたが考えてみれば当たり前でした。
病院から受け入れを了解する返事が貰えたのでいざ出発です。夜中だったので渋滞も無く病院へ向かいます、車中にて妻の意識が回復してきました。「ここは何処?」と「何があったの?」と繰り返します、本人は全く覚えていない様で私が簡単に説明している間に病院へ到着。

脳外科の先生から説明を求められ最初に「何分位発作を起こした?」の質問に答えられません…10分位に感じましたが痙攣していた時間は1~2分位かも?と答えると先生から「長く感じるけど多分1分弱かな?次からは時間も意識して下さいね」と…そんな余裕があるかな?

病院では「抗てんかん薬」の投与が行われ数時間休んだ後に主治医の診察を受けました。おそらく入院中に聞いていたであろう注意事項を再度確認しました。

①薬の中断・減量は絶対に行わない。
②過度な疲労は避ける事。
③飲酒・喫煙はしない。
④強い光を感じる所には行かない(映画館・コンサート等)
⑤人混みの中に長時間いない。
⑥気候や気圧の変化に気を付ける

今回は正に①でした。診察が終了した時に帰るときの足が無いことに気づきました(救急車は片道)それから妻は病院から借りたスリッパを履いていました…靴を忘れた。
両親に連絡し無事に自宅へ到着です。この日は会社も休んだので二人で過ごすことにしました。

帰宅してしばらくすると妻から夫婦としての営みを…と言われ発病後初めて行いました(細かい描写は省きます)てんかん発作後だったので心配でしたが無事に終了し妻を見ると泣いていました。
困った私は理由を聞くと「子供……作れるかな?」 数時間前に救急車で運ばれた人の発言とは思えませんが目の奥に強い意志を感じましたので「脳外科と産婦人科に確認しようか?」と答えると満面の笑みで頷きました(女性は強い…)

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2011年3月30日水曜日

てんかん

妻が薬を無断で中断してから2日後の深夜に発生しました。私は普段から一度睡眠に入ると朝まで起きない(起きれない)のですが、この日は何故か深夜に目が覚め隣で寝ている妻を見ると右腕が天井に向って垂直に伸び痙攣をしていました。焦って妻を見ると顔面も痙攣していていたので妻を起こそうとしますが口から泡が吹き出てきて私は完全にパニック状態…何故か右腕を下ろそうと試みますが全く動きません、非力な妻の腕が動かせない事で更にパニック状態へ取り合えず救急車を予防と電話機まで走ります。

119番と言いながらダイヤルすると「110」へダイヤル「すみません間違いました!」と119番へ再度ダイヤルします。落ち着いた対応に若干イライラしながら状況を説明します、思わず「早く来てもらえませんか?」と文句まで飛び出します。すると「既に向かっていますので落ち着いて下さい」との事…この時にようやくパニック状態から回復しました。自分が恥ずかしかったです

痙攣は治まりましたが意識は無く表情もありませんでした。取り合えず救急車を迎える為にアパートの外に出て煙草を吸いながら待ちました。救急隊が妻を運び出し私も同乗して病院へ直行しました。

当然ながら救急車初体験でしたが何も覚えていません…続きは次回へ




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2011年3月29日火曜日

薬について

発病してから妻は多くの薬を服用していました。「抗てんかん薬」は服用直後から問題が多くて飲むとすぐに気持ち悪くなる・眠くなる等、副作用が強い薬だと認識していました。「てんかん」がどの様な事かも知らずに…

夫婦での生活から半年が経過しました、妻は発病前から考えると60~70%回復したと思います。初対面の人は妻が病気と気づかない程度まで回復しました。しかし、抗てんかん薬を服用することを嫌がり毎日の様に愚痴を言っていました。「頭の中に霧が立ち込める様な感じ」と説明し、先生に対しても服用を中断したいとお願いしていたほどです。先生からの回答は「忘れずに飲んで下さい」の一点張りで薬を変更したり量の調整には応じてくれました。

ある日、会社から帰り妻の顔を見た私は驚愕しました。発病前の顔に戻っていました…そして思わず「お帰り」と言っていました。体調が良いのかと聞くと「2日前から抗てんかん薬は飲んでいないよ」との事でした……大丈夫なのか心配になりましたが久し振りの妻の表情に思わず笑顔になっていました。

この数時間後には恐れていたことが起きます。薬は飲ませるべきでした…

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2011年3月28日月曜日

二人での生活

実家での生活が1ヶ月程度続いた時に妻から自宅(アパート)での生活をしたいと言う事なので先生に了解を得て数ヶ月ぶりの夫婦での生活が始まりました。

炊事・洗濯・掃除はまだ難しそうでしたので炊事は両親にお願いし、洗濯・掃除は私が担当する事になりました。実家に居るときとの違いは昼間に妻が一人で家に居ることで私は心配で仕事が手につかなく2時間毎に電話をしていました。

少しでも体調が悪いときは仕事を休んで一緒に過ごし、可能な限りそばに居るように心がけました。
近くに居て分かった事は長時間TVを観ることが出来ない・複数の音を判別出来ない(TVと会話等)・寝つきが悪い等でした。

しかし着実に回復はしています。自宅でも率先してリハビリを行い、この頃では新聞の記事を書き写す練習をしていました。書き写す以外にラジオのニュースを書き写す作業も行います、これは私も出来る自信がありません…


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2011年3月27日日曜日

退院から日常生活の開始

いよいよ退院となりました。予定通りまずは実家にて妻の両親と生活して日常生活に慣れてきたら私との生活を始める予定です。
入院期間中に病室へ持ち込んだ物が多く義父の車と私の車で輸送しました。退院後もしばらくはリハビリの為、通院しますが実家で生活することもリハビリになります。

帰った妻から私に対しお願いがあり、夕飯は一緒に食べる事とお風呂も一緒に入る事でした。夕飯は私と一日に一回は会う為でお風呂はまだ一人で入るのが不安だからだそうです。私も当然ながら快諾し妻の日常生活がスタートしました。

私は元々早口で特に妻との会話では主語を省いて話す癖がありましたが現在の妻では通じないので必然的にゆっくりと丁寧に話す様になりました。食事の最中も妻は今日あった事を頑張って話してくれますリハビリの先生から貰った宿題の事やニュースの内容等、リハビリの先生からの宿題は一時期話題になった「脳を鍛える~」と似た内容でしたので私も実践してみましたが難しく妻に負ける時もありました(私は本気でやりましたが…)そんな時は家の中に笑い声が響き幸せな時間となります。

初めて妻とお風呂に入りました。発病前は一般的な体型でしたが、この時の妻は驚くほどに痩せていました。それはスマートになったのでは無く、骨と皮だけになった感じでとても辛かったです。手術の為部分的に剃られた髪の毛も痛々しいです。早く元の状態に戻る事を祈るのと、如何なる努力も惜しまないと誓いました。

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2011年3月26日土曜日

いよいよ退院?

発病後から1ヶ月が経過し妻の状態は驚くほど回復し自分で食事(箸で)・風呂・歯磨きが出来るようになり会話も聞き手が努力すれば成り立つまでになりました。先生からも退院の話しが出てきました
「まずは実家で両親に助けてもらいながら生活し、自信がついたら夫婦で生活」との事でしたが妻が断り半月ほど延期しました。妻に理由を聞くと「まだ外での生活に不安があるのと、リハビリを頑張りたい」 確かに回復するスピードは緩やかになった気がしますが新しく出来ることも増えているので半月間限定での延期をしました。

脳卒中になっても入院期間は1.5ヶ月でした。最初は半年間位は病院で過ごすのかと思っていましたが予想以上に早い退院に私の心の準備も整っていなかったので半月間の延期は私にも準備する時間が出来て助かりました。

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2011年3月25日金曜日

思わぬ落とし穴

前回の投稿まで非常に早いペースで回復し、仕事が終わってから病院へ行くことが楽しくなっていました。「今日は何が出来るようになったかな」と言う感じでした。

しかし妻の表情が日に日に曇っていき深く考え込む様になりました。心配になったので先生に確認すると発病直後は自分の状況が分かっていなかったので先生の言われるままリハビリをしていましたが回復するにつれ事の重大さに気づき始め精神的に追い詰められているとの話しでした。
リハビリを休んだり中断する時もあるそうで、そんな時は先生が妻の話を聞いてくれているみたいでした。女性の先生で本当に救われた気分です。

この頃の妻は片言の日本語レベルまで回復していたので私も妻の悩みを聞くことに専念しました。
妻の悩みは次の通りでした。

悩み
①私から離婚を言い渡されるかも?
②日常生活が遅れるのか?
③子供を作れるのか・育てられるのか?
④また脳出血が起きるのではないか?
⑤社会復帰(仕事)できるのか?

私の回答
①離婚については即座に否定しました。
②⑤については今後のリハビリ次第だね!としか答えられません…
③については全く想像がつかないので保留…
④については術後に先生から聞いていたので否定しました。

やはり将来に対する不安ばかりでしたので最後に「二人で頑張ろう!」と励ますと笑顔で頷いてくれました。


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2011年3月24日木曜日

更なる回復

妻が片言を話しだしてからは回復する速度が加速します。数日後には単語を話すまでに回復しました「病院…ご飯…美味しくない」等、単語を繋げて文章になる様に話し周囲を驚かせてくれました。
動作の方もスプーンとフォークですが自分で食べれる様になり、食べるスピードも段々速くなりました。
まだ発病から半月頃だったと記憶しています。

手術直後の後遺症に対するイメージは能力・知識が完全に失われてしまう物だと思っていましたが妻が回復するにつれ自分の勘違いだったと気づきます。妻は先生に教えて貰っている事以上に回復しています。自分のイメージですが人間の能力をパズルと例えて次の通りとしました。

①発病前は完成されたパズル
②発病によりバラバラになる(1ピース単位)
③リハビリにより1ピースから数ピースのブロックに
④ブロックが集まり一つの面になる。

簡単に言えば 点が線に線が面に と言う感じで今の妻は③(線)の状態だと感じました。
最終的に一つの面になっても抜け落ちたピースは戻らないかもしれませんが完成されたパズル(能力)に近づける様に夫婦で突き進もうと妻と約束しました。

※私には医学の知識はありません、内容は私の感想や主観から記載していますのでご了承下さい
またご意見やご感想等ありましたら気軽にコメントして下さい。

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2011年3月23日水曜日

言語の回復

言語が戻ってきました。私が病院に到着すると妻の両親から妻が何かを話しているが意味が解からないと報告してくれました。
妻は数分前から「ま……」と一言話しては困った顔をしている様です。私は直感的に「まくらが合わない?」と聞いてみると我が意を得たりと嬉しそうに喜んでいました。発病後に初めて見る妻の笑顔に私まで笑顔になりました。なぜ枕と思ったのかは自分でも分かりません妻の表情等から想像したのだと思いますが妻の両親は驚いていました。

それから妻は何かヒントの様な感じで頭文字とジェスチャーで自分の意思を伝える様になります。例えば「お…」と言われ音楽が聞きたかったとか「と…」でトイレ等、運動機能も回復を始め室内のトイレであれば車椅子無しで歩いて行ける様になりました。

脳卒中による後遺症は一人一人違うそうなので妻のケースが重症なのか軽症なのかは分かりませんが改めて人間の回復力は凄いと感じました。もしこのブログを見ている方で自分や家族の方が脳卒中になっても諦めずにリハビリを行えば信じられないくらいに回復出来ると思います。


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2011年3月22日火曜日

反応に変化が

今まで問いかけに対して全く無反応だった状態から何となく意味が解かっている様な反応が出てきました。首を縦に振ったり傾げたりと「YES」と「NO」そして「解からない」の意思表示が出来る様になりました。意思疎通が出来ただけで感動してしまいました。

最近の地震で頻繁に放送されている公共広告機構(オシム監督)で「サッカーも脳卒中もスピードが大事」と言っていますがリハビリもスピードが大事だと痛感しました。先生に対して一瞬でも不信感を抱いた自分が恥ずかしかったです。

詳しく話を聞くと発症後1~2ヶ月位が最も回復し、その後の回復スピードは緩やかになってしまうとの事でした。

運動・作業・理学とほぼ毎日、数時間の休憩をしながらのリハビリで各担当の先生は本当に親身になってやってくれていました。他の病院の事はよく分かりませんが良い病院に当たったと思いました。病気の治療や回復具合も病院や先生により左右される様な気がします…


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深刻な後遺症

前回より記載していた言語障害や麻痺に加えて歯磨きの仕方やご飯の食べ方まで忘れたかの様にスプーンやホークを渡しても自分では食べれません…まさに赤ちゃんに戻ってしまったかの様です。頭痛が治まり起きている時間も長くなると後遺症の深刻さが鮮明になってきます。リハビリの先生は社会復帰を目指し努力してくれていますが本当に日常生活がおくれるのか心配になりました。

2011年3月21日月曜日

離婚!?

妻の容態が安定してくると我々夫婦の親戚関係が見舞いに訪れる様になります。時に変わり果てた姿に涙する親戚や一命を取り留めた事に安堵する親戚ありと賑やかになりました。現れる親戚の顔を見て妻も反応する様になってきます。しかし右半身麻痺と言語障害は依然として残り親族の言葉も届いたか判りません…

私自身も一般的なサラリーマンですので朝一番で出社し、やるべき事を全速力で行い病院へ暫く看病し夕方から会社に戻り夜は病院に泊まる様な生活が続いていたので心身ともに疲弊していました。

そんな時に妻側の親戚から「この子は親族で面倒を見るから離婚して新しい人生を歩んで欲しい」と言われました。私も全く考えていなかったと言えば嘘になりますが、いざ面倒向って言われると間髪入れずに「離婚はしません!妻が私を捨てたら諦めますけど」と返していました。
妻に対する愛情や同情では無く必死にリハビリをしている妻を捨てて自分だけ病気から逃げれば私の将来は全ての事から逃げる人生になると思ったからです。ちょっとキザかもしれませんが妻のリハビリは凄みを増していましたし自分だけ逃げて、その先に幸せな人生は無かったと思います。



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このブログについて

若干遅い気がしますがこのブログは数年前に起きた事を振り返りながら記載しています。当時はブログを書く余裕が無かったのと知識がありませんでした。
今では振り返る余裕が出来たのでもしご意見等ありましたら気軽にコメント戴けると嬉しいです。

意識回復

妻の意識が戻りました。数日続いた頭痛はある程度治まったみたいで目を開けて病室を見まわしていました早速先生が話し掛けますが全く通じない状態で日本語を知らない外国人に話している様な印象を受けました。更に右半身は動かない事も判りました…

先生からの説明では言語や計算能力等基本的な機能と右半身を動かす機能が損なわれているらしいです。私がいくら話し掛けても無反応でしばらくすると眠ってしまいました。
もう病気をする前の妻には戻らないどころか話したり歩いたり出来るのか本当に心配になり少しでも気を緩めると涙が出そうになります。

数週間前までは海外旅行や子供を作る話しをしていたのが嘘の様に思え帰りの運転中に泣きました高速道路で思いっきりハンドルを切れば自分も死に楽になるのではと考えもしました。
この時の私には絶望しかありませんでした。

術後の様子

術後の説明が終わり病室に戻ると妻が戻って来ました。頭に包帯を巻き眠っていましたが時折辛そうな顔をします。するとリハビリの先生が現れて右半身の腕や足を動かし始めました。

思わず「手術が終わったばかりなので静かにして貰えませんか」とお願いすると先生から今からが一番大切な時期ですのでお任せ下さい。とバッサリ断れました…一瞬ムッとしましたが医学の知識などは持ち合わせていないので傍観する事になりました。

先生達のリハビリも終了し改めて妻を見ていると突然 大声で叫び始めました何が起こったのか解らないでいると看護師さんが現れ頭を抑えてあげると治まりました。説明によれば外科的な痛みが起きるので叫び始めたら頭を抱く様に抑えて欲しいとの事でした。

この後24時間体制での付き添いが必要となり妻の両親と私が交代で付き添う様になりました。
叫ぶ時に「痛い!」とか日本語で言うのでは無く、「ギャーー!」と病室の外に聞こえる程大きな声で叫んでいるのが更に不安になる要因でした。

後遺症

術後の説明が続きますが妻の脳内では既に出血があり左脳が損害を受けていると説明されました。左脳には言語を司る部分もあり、かなりの後遺症が残るはずだし右半身の麻痺も心配だと説明されました。
この時は術後の妻を見ていなかったのであまり実感がありませんが今後の二人に大きな影響を及ぼす事は間違いないと感じました。

2011年3月20日日曜日

ナイダスがあるダス?

タイトルの文言は術後の先生からの説明で実際に耳にした言葉です!先生としては気持ちを和らげる為の洒落だったと思いますが一族の反応は…でした。
ちなみにナイダスとは血管が混線してる様な感じで混線したホースに大量の水を流すと…やはり破裂します。大量の水が流れた原因は詳しく説明出来ませんが仕方の無い理由があったと思って下さい(個人情報を守る為ご了承下さい)
ナイダスは前回でも触れた様に知らずに持っている人も多い様なので脳ドックなので健診を行うのも予防になると思います。

2011年3月19日土曜日

病気の要因

術後の先生からの説明により、病気の全容が判明しました。

妻は先天的に脳内血管に奇形(ナイダス)があり、それが破裂した為に脳出血が起きました。
奇形血管は割りと多くの人が持っていて知らずに寿命を全うする人も多いが破裂する場合は
30代に起き易いそうです。

ちなみに妻は発病前から酷い偏頭痛がありましたが発病後は一切無くなりました。全ての
偏頭痛が要因とは思えませんが妻の場合、偏頭痛の原因は奇形血管だったと思います。

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発病

発病しました。病院のベッドに横たわる妻は既に意志が無い顔で植物状態でした。病名は脳動静脈奇形による脳出血との事でした。直ぐに開頭手術が行われました。手術中の時間は果てしなく長く辛い時間で術後の先生による説明も上の空でした。
手術は頭蓋骨を切り奇形の血管を取り除く物で成功はしましたが大きな後遺症が残ると言う説明に愕然としました。夫婦ともまだ30代で子供も居ない状態で将来の事を考えるのが恐くなりました。

結婚してから

何とかプロポーズをして結婚しました。結婚してからは周囲の予想通り完全に仕切られてしまいました。しかし転がされる方が家庭円満と言い訳?をしながら日々大きな問題も無く過ごしていました。
すぐ近くに人生を揺るがす事が起きるとも知らずに…

当時の私達は多くの事が思い通りに進み贅沢は出来ないがそれなりに収入もあり人生がそういうものだと思っていました。

今から思うと非常に子供だったと思ってしまいます。

次の投稿からは病気について記載していきますが個人情報を守る為に若干説明不足があるかと思いますがご了承下さい

2011年3月18日金曜日

結婚に至るまで

最初に妻との経緯について説明します。
妻とは社内恋愛でした。ちなみに妻は先輩で私が新人で入社した時にはバリバリと仕事をしていたので感心と憧れの対象でした。

色々あり妻と付き合う様になり気の強さに驚きました。私は流される所があるのでバランスが良かったかもしれません…「結婚したら多分カカア天下」と周りに冷やかされた事も多々ありました。

私もいずれ結婚するのかと覚悟?を決めつつありました。